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医学部 岡野栄之教授・中村雅也教授
2022/04/22
-まず、脊髄損傷の研究・治療に関わるようになったきっかけを教えてください。
中村:僕は医学部時代、バスケットボール部に入っていました。2年生の冬、部の仲間と長野の八方にスキーに行った際、ゲレンデで一つ下の後輩が頸を怪我しました。ただ僕はその時、脊髄損傷がどんな怪我かをわかっていなかった。八方から3時間半かけて救急隊と移動し慶應病院に着いたときは、「これで救われる、手術が終われば治るんだ」と本気で思っていました。
事故からしばらく経って彼の実家を訪ねました。すると彼が、電動車椅子を顎で操作しながら出てきたんです。この時の気持ちはなんと言ったらいいか……。この前まで一緒に部活をやっていた仲間が、肩しか動かない、肘も手も足も動かない。え、どうして?どうして治せないの?という怒りに駆られ、雷が落ちたような感じがしました。
その後、彼は医学部から文学部へと転部し、図書館員として働くことになりました。僕は、脊髄損傷を治せないことへの悔しさを感じるとともに、自分の状況を受け入れ一生懸命生きる彼の姿に、ものすごく影響を受けました。当時は「脊損を治したい」なんて口にこそあまり出さなかったですが、あれから40年経っても気持ちは変わりません。彼の存在が、間違いなくいまの僕の原点ですね。
岡野:私はもともと研究をしたくて医学部に入りました。学生のときは、がん遺伝子の分子学的研究に明け暮れていましたが、すでにマサチューセッツ工科大学(MIT)などで研究が先行していたこともあり進路に迷いがあった。それで、大胆にも国立がんセンターを訪ね、当時研究所長だった杉村隆先生に会いにいったんです。アポなしですから当然、秘書の方に門前払いされるところでしたが、たまたま杉村先生が「なになに?」と出てきてくださって、そのまま30分くらいお話ししました。
杉村先生はがん研究を続けることを勧めるかと思いきや違いました。「いや〜君ね、やっぱり人がやらないことをやるのがいいんじゃないかね。僕はそういう風に生きてきたよ」とおっしゃって、がん研究を牽引してきた先生がいかに独創的な道を切り拓いてきたかを話してくださった。やっぱりすごいなと目から鱗が落ちる思いでした。
「人がやっていない領域」ということで考えたのが、分子生物学の研究手法を使って神経構造を解明することでした。80年代初頭は、神経の研究では形態学と電気生理学以外の手法はほとんど取られていなかったんです。尊敬する脳神経科学者の御子柴克彦先生の勧めもあり、生理学教室に入って神経系の発生の研究をやるようになりました。また実は、大学入学前に、父の知人の脊髄損傷患者の方から「将来はこういう病気を治してほしい」と言葉をかけられていました。結果としてその思いに応える道に進むこととなりました。
-岡野先生はその後、15年間にわたって神経発生の基礎研究を続けられますね。
岡野:1983年に大学卒業し、89年にはショウジョウバエの神経発生の研究で米国ジョンス・ホプキンス大学に留学しました。91年には神経幹細胞に発現する分子Musashiを発見。帰国後も研究を続け98年、ヒトの大人の脳にもMusashiが発現する、つまり神経幹細胞があるということを世界で初めて見出し、論文を発表しました。
この神経幹細胞は、ニューロン、アストロサイト、オリゴデンドロサイトなどさまざまな細胞を作るもとになる細胞です。ヒトの大人の脳に神経幹細胞が存在するということは、これまで再生しないと思われていた神経系が再生できるかもしれないということ。論文発表後の世の中の反響は大きく、脊髄損傷や神経難病の患者さんから「なんとか治してほしい」とお手紙をいただくようになりました。
また97年から大阪大学に移ったのですが、当時の医学部長で、免疫学の研究者である岸本忠三先生には大変影響を受けました。岸本先生はIL6というサイトカインを発見され、その受容体に対する抗体は慢性関節リウマチやキャスルマン病の治療薬に役立てられ、最近はコロナの肺炎の治療にも使われています。「基礎研究は臨床に役立ってこそ」「突き抜けた基礎研究は難病を治せる」ということを体現しておられる岸本先生の姿を見て、自分もそうありたいと思い、臨床を目指した再生医療の基礎研究を本格的に始めるようになりました。
-お二人がタッグを組むきっかけは、中村先生の米国留学中の再会だったそうですね。
中村:脊髄再生の研究をしようと整形外科に入局したものの、当時は「脊髄の再生なんて夢物語」と思われていた時代。国内での研究には限界を感じていました。そこで、周囲の反対を押し切って単身アメリカへ。しかし共同研究を始めた先でも、さまざまな事情で思うような研究ができませんでした。
そんな状況だった99年の春に、当時阪大にいらした岡野先生が査読レビューでNASAに招聘されて、ワシントンD.C.にいらっしゃったんです。それでダレス空港まで岡野先生を迎えに行き、桜が咲くポトマック川のところで近況を話したんですよね。すると岡野先生が「それなら阪大に来て、技術的なことを勉強すれば」と言ってくださって。それから約1カ月間、僕は日本に一時帰国し、阪大で神経幹細胞の培養方法などをみっちり教えてもらいました。おかげでさまざまなノウハウを持ってジョージタウン大学に戻り、研究を続けることができました。あれがなかったら僕は諦めて途中で留学を切り上げていたかもしれません。
岡野:当時は、私も神経幹細胞で脊髄損傷をどう治せるのか考えあぐねていました。中村先生には阪大で細胞の培養方法などの技術的な部分を教えた一方で、私も脊損に関するいろいろなアイディアをいただきました。
中村:あの頃、阪大の研究室から帰る車の中で岡野先生から言われたこと、僕はいまでも忘れていないです。「雅也先生、再生医療はまだカオスなんだよ。誰も出てきてない。ここで突き抜けるしかないんだよ、2人で世界に挑戦しようよ」って。当時夢はあってもまだ何も成し遂げていなかった僕は、その言葉にすごく触発されました。この人と一緒にやったら何かできるんじゃないかと思いました。
岡野:その後、偶然ほぼ同時期に、二人とも慶應に戻ったんですよね。2001年4月には、慶應に新たに総合医科学研究センターができて、中村先生はじめ優秀な研究者たちと、ヒトの神経幹細胞を使った脊髄再生の研究を始めることとなりました。99年にD.C.で中村先生に会ったことは、やはりいろんな意味で我々の研究の出発点でしたね。
-神経幹細胞を用いた脊髄再生のメカニズムについて教えてください。
岡野: 「再生」というのは、「発生」をやり直すことです。神経幹細胞を脊髄に移植することによって、ニューロンやアストロサイト、オリゴデンドロサイトなどの発生現象をもう一度繰り返す。すると、途切れていた神経回路が再構築されたり、軸索にグリア細胞が補われて髄鞘が再び形成されたりする。一度損傷してしまった組織が、組織学的に修復し、機能的にも再生していくというわけです。
実際、2000年初めには、「神経幹細胞を移植すると脊髄損傷が治せる」ということを我々はわかっていました。胎児由来の神経幹細胞を脊髄損傷モデルのマウスやサルに移植し、運動機能が劇的に回復することを確認していたのです。
-iPS細胞の発見前から、動物実験では脊髄再生に成功していたんですね。
岡野:はい。次はいよいよヒトへの移植に進めると思ったら、そうはいかなかった。2006年に「胎児由来の神経幹細胞の臨床応用は時期尚早」と判断されたためです。倫理的な規制によって日本では臨床試験までたどり着けないこととなり、フラストレーションを抱えていました。
そんな時、07年に京大の山中伸弥先生がiPS細胞を発見されたんです。論文発表の前からiPS細胞のことは聞いており「これならいける」と確信がありました。その後、山中先生に提供いただいたiPS細胞から神経幹細胞を作製することに成功。さらに12年には、ヒト由来のiPS細胞を脊髄損傷のマウスやサルに移植し、成功しました。
-実際にヒトへの移植が実現するまでには、この後も多くの困難があったんですね。
岡野:これならヒトに投与できる、という細胞ができるまで、その条件検討になんと約10年もの月日がかかりました。というのも、神経幹細胞は分裂・増殖して神経細胞やグリア細胞を作るわけですが、適切なところで分裂が止まらないと腫瘍になってしまいます。しっかりと生着し組織を修復する、かつ腫瘍化しない細胞を作るために、どれくらいの細胞数を移植しどのような条件で培養すればいいか。その検討に長い時間を要したわけです。
中村:iPS細胞を樹立するというのももちろん世界初の技術ですから、発展途上というか、数年経つとバージョンアップしていくんですよね。より良いiPS細胞ができるのは大変ありがたいことですが、iPS細胞が変われば分化誘導の方法も変わりますし、分化には数カ月かかる。さらに作った細胞を動物に移植し数カ月後に腫瘍化が起きないことを確認する必要があります。年単位で足止めを食うこともしばしばで、この日々は本当に大変でしたね。
岡野:この1年は何だったんだ、No Progressじゃないか……と頭を抱えることが何度もありましたね(苦笑)。さらに臨床研究までには、厳格な出荷判定基準──例えば、ウイルスが混入していないか、がんに関連する遺伝子に変異がないかなど──をクリアする必要もありました。そうやって一つずつチェックを重ね、最終的な評価が終わったのは2020年8月31日のことでした。その後、コロナの感染拡大で患者募集が止まるなど、紆余曲折ありましたが、昨年2021年の12月8日に、ようやく第1症例目の細胞移植を実施することができました。
中村:科学的なこともそうでないこともいろいろありましたが、無駄だったことは一つもないと思います。患者さんに届ける以上、ベストサイエンスを尽くすのが我々のポリシーですから、転んでもただでは起きあがらずしっかりと何かを学んで立ちあがり、ここまでやって来たという感じですね。
岡野:そうですね。本当に長い年月と手間がかかりましたが、一連の過程で蓄積されたさまざまな知識・経験は我々の自信となっています。また、世界初の手術にこぎつけるまでには、慶應義塾大学病院全体、さらに協力医療機関である村山医療センター、京都大学iPS細胞研究所(CiRA)など、慶應内外のチームによって支えられました。非常に有難いことだと思っています。
-今回の臨床研究の概要と、いまの率直なお気持ちを教えてください。
中村:今回の臨床試験は、脊髄損傷から2〜4週間の亜急性期、それも損傷程度の最も強い完全麻痺の患者さんを対象としており、ヒトiPS細胞由来の神経前駆細胞を約200万個、損傷脊髄の中心部に移植しました。今後1年間かけて造腫瘍性がないことなどの安全性を確認します。また、通常の患者さんと同じリハビリを実施し、細胞移植を実施していない患者さんと比べて、機能的な改善があるかどうかを検証します。この臨床試験はあと3人、計4人の患者さんに実施する計画です。1例目の手術を終えて、ようやくここまで来たという気持ちと、またここから新たなスタート地点に立ったという感覚がありますね。
岡野:1例目の移植ができたということは、“0歩”ではなく“1歩”を踏み出したということ。もう待ったなしです。今度こそ、今度こそ、患者さんのもとへとこの医療を届けるために、さらにスピードアップしていきたいと思っています。
-慢性期の患者さんやご家族の期待も大きいと思います。治療の見通しはいかがですか。
岡野:慢性期の研究ももちろん進めています。慢性期の場合は、亜急性期とは少し特性の違うiPS細胞由来の神経前駆細胞を使いますが、2〜3年後には医師主導治験を開始できるよう、こちらも中村先生たちと着々と準備を進めているところです。
中村:今回の臨床試験が報道されてから、慢性期の患者さんのご家族から「もう諦めていた父が、このニュースを知ってまたリハビリを頑張り始めました」というお手紙をいただきました。亜急性期だけでなく慢性期の患者さんにとっても希望の光になっていることが嬉しかったですし、これまで以上に身が引き締まる思いです。
市民公開講座などで僕がいつも伝えているのは、「リハビリを行って残っている機能を最大限高める努力を続けてほしい」ということです。脊髄損傷の患者さんやご家族の中には「iPS細胞は魔法の細胞、これさえあれば急に足が動くようになる」と誤解している方がいますが、それは全く違います。細胞移植というのはあくまでも脊髄再生に向けたパズルのピースの一つ。そしてリハビリもまた欠かせないピースです。来たる再生医療の実現に備えて、それを受けられる筋力や体力、気力を維持するためにも、日々のリハビリを一生懸命頑張ってほしいと思っています。
-再生医療の実用化に向けた課題を教えてください。
岡野:将来的に「再生医療を社会実装する」、つまり全国津々浦々にiPS細胞由来の細胞を提供するとなると、細胞を大量に培養するプラットフォームを開発し、大規模な細胞培養施設を作らなければなりません。大学だけで担うことは到底不可能ですし、企業に丸投げすればうまくいくわけでもありません。つまり、我々アカデミアと企業が一体となって取り組む「医工連携」「産学連携」が不可欠となります。
そこでいま私も中村さんも、研究の仕事に加えて、日本再生医療学会をはじめとするさまざまな場で、国として再生医療を振興するための取り組みにも注力しています。なお、再生医療への需要が高まり、十分に供給できる体制が整えば、ある程度のコストダウンは自然と進んでいくはずです。
中村:再生医療が患者さん一人ひとりの手の届く医療として普及するためには、より良いものを・より早く・より安く、提供できなければいけません。そのために、サイエンスの進歩のみならず、産学が一体となってスピード感を持って取り組むことが重要ですね。
-先生方の思い描く「再生医療の未来」とは、どういうものなのでしょう。
岡野:iPS細胞を使った再生医療はいま、QOLを著しく損なう疾患や治療法のない疾患を標的としたものが多いですが、いずれはCommon Diseaseにも広く使われるようになるでしょう。またその際は、既存の薬の作用をさらに高める、リハビリテーションの効果を高めるといったように、再生医療と組み合わせることで治療効果を上げていくという方向性になっていくと思っています。
中村:僕が再生医療で目指しているのは、“元気でぽっくり”です。というのも、いま医療の進歩によって寿命こそ伸びていますが、それに臓器や器官が追いついていないというケースがたくさんありますよね。神経領域では認知症や脳卒中、整形領域では腰痛や膝関節痛などもそうですね。そういった部分を再生医療でカバーできるようになれば、寝たきりや要介護の状態ではなく、最期まで自分らしく生きられる人が増えるはず。そんな社会に寄与することが再生医療の目指すところだと思っています。
-ところで、20年も一緒に研究されてきたおふたりは、互いをどんな研究者だと思っていますか。
中村:岡野先生は世界トップレベルのニューロサイエンティストですから、僕はもう全てをリスペクトしています。特にすごいところですか? 例えば、以前ICM(パリ脳研究所)に一緒に行ったときのことですが、岡野先生はどんな分野の研究者とも話が盛り上がるんです。専門外のことまでなぜこんなに詳しいんだろうと、その底知れぬ知識の幅広さ・深さには本当に驚かされました。周囲の人から学会でもよく言われますよ「あんな切れ者の岡野さんとよく何十年も研究できるね」って。「気持ちだけでやってます!」って答えていますけど(笑)。
岡野:中村先生ほど熱い心を持っている整形外科医は、なかなかいらっしゃらないと思います。それからこの間も一緒に手術に入りましたけど、やっぱり手術が本当にうまいです。その「熱い心」と「神のような手捌き」、全面的に信頼しています。まあ、中村先生と僕はちょっと違うキャラだから、こうやって20年以上も一緒にやってこられたんじゃないかな(笑)。
中村:慶應の塾長であった小泉信三先生は、スポーツを例に「練習は不可能を可能にする」という言葉を残していますが、僕は岡野さんと研究をしてきて「サイエンスは不可能を可能にする」ということを感じています。数十年前まで不可能と思われていたことを、いまこうして一歩踏み出して実現したわけですから。いままで以上にこれからも頑張っていきたいですね。
-あらためて、慶應医学部のどんなところに魅力を感じますか。
岡野:慶應医学部は「基礎・臨床一体」を開設時から掲げていますが、まさにその理念通り、垣根が本当に低いです。基礎研究を新たな診断・治療法の開発につなげるTranslational Researchと、臨床現場での問題点や診断を基礎研究にフィードバックするReverse Translational Researchの両方が、こんなにもスムーズにできる大学は珍しいです。非常にいい環境だと思いますね。
中村:同感です。実際、岡野先生は基礎研究の立場から、僕は臨床側の立場から脊髄再生に取り組んできたわけですからね。僕らのタッグは、慶應医学部の精神を実践しているものでもありますよね。
岡野:それと面白いのは、例えばうちの生理学研究室には、整形外科のほかにも脳神経外科や神経内科など、いろいろな科から臨床の先生がやって来るんです。臨床同士のコミュニティができることで、病気への集団戦法が組めるといいますか、別の科の先生の考え方や検査の方法が役に立つことが結構あるんです。基礎・臨床の壁だけでなく、臨床同士の壁も低い。いい大学だと思いますよ。
-医学を志す若い世代へ向けて、メッセージをお願いします。
岡野:誰もやっていない分野をサイエンスで切り拓きたい、そして、治療法のない病気に苦しむ人を救いたい。この2つが、私がこれまで研究を続けてこられた原動力だと思います。この先どんな時代になっても、新たな難病は必ず出てきます。がんや認知症を制圧しても、また次の病気が出てくるでしょう。その際、チャレンジング精神を持ち、人類の英知を尽くして治療法の開発に挑む科学者・医師であってほしいと願っています。
中村:医学部生や整形外科の若い先生たちに、僕がよく伝える3つの言葉があります。まず大切なのはPassionです。思いや夢と言ってもいい。そのパッションを持ってVisionを描くこと。 10年後どうなっていたいか。そのために5年後、3年後にどうありたいかを具体化してください。そしてそのビジョンを達成するために今何をするべきか、すなはちActionです。“Passion, Vision, Action”、これを本気でやっている人は、失敗しても言い訳しません。どん底まで落ちても必ずそこで何かを掴んで、より大きくなって這い上がってきます。
それから、「自分は大学時代にこれをやった」と胸を張っていえるものを見つけてほしい。勉強でも、部活でも、ほかのどんな活動でもいいんです。愚直に全力で打ち込む、本気でぶつかっていく。その姿勢は将来必ず報われると思います。若い学生さんは大きな夢を持って、慶應医学部に来てほしいですね。
岡野 栄之(おかの ひでゆき)
1983年、慶應義塾大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部生理学教室、大阪大学蛋白質研究所、米国ジョンス・ホプキンス大学、東京大学医科学研究所を経て、94年、 筑波大学基礎医学系分子神経生物学教授。97年、大阪大学医学部神経機能解剖学研究部教授。2001年より慶應義塾大学医学部生理学教室教授、17年より慶應義塾大学大学院医学研究科委員長(いずれも現在に至る)。文部科学大臣表彰、井上学術賞、紫綬褒章、ベルツ賞、高峰記念第一三共賞、上原賞など受賞・受章多数。
中村 雅也(なかむら まさや)
1987年、慶應義塾大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部整形外科学教室、米国ジョージタウン大学を経て、2000年、慶應義塾大学医学部助手。京都大学再生医科学研究所非常勤講師 、星薬科大学薬理学教室非常勤講師、慶應義塾大学医学部整形外科学教室准教授を経て、15年より同教授(現在に至る)。日本整形外科学会・学会奨励賞、ベルツ賞、日本再生医療学会賞など受賞多数。
この記事は、慶應義塾大学医学部・医学研究科サイトに掲載したものです。
※所属・職名等は取材時のものです。
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