8月5日、リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックが開幕します。今大会にも慶應義塾の塾生・塾員(卒業生)が選手として参加します。彼らは優秀なスポーツマンとして記録に挑戦するだけでなく、日本と日本人の真摯なスポーツマンシップの象徴でもあります。
あまり知られていませんが、慶應義塾体育会は、リオデジャネイロ大会だけでなく、その120年以上の歴史の中で数多くのオリンピック選手を輩出してきました。また、競技としての側面のみならず、慶應義塾では、人格形成の重要な要素としてスポーツを捉える考え方が古くから根付いています。
1932(昭和7)年 ロサンゼルス大会参加選手(ホッケー)
慶應義塾のメダリストたち
日本としては2回目の参加となった1920年の第7回アントワープ大会では、塾員の熊谷一弥君がテニスのシングルスとダブルスともに銀メダルを獲得。これが記念すべき日本人メダリスト第1号となりました。
熊谷一弥君(テニス)
さらに、1936年の第11回ベルリン大会での水泳陣の活躍は目覚ましく、当時塾生だった寺田登君が1500m自由形で金、小池礼三君が200m平泳ぎで銅メダルを獲得。同大会の陸上・棒高跳び競技では、5時間の死闘の末、慶應義塾の大江季雄君と早稲田大学出身の西田修平選手が同記録で2位、3位を分け合い、帰国後に二人のメダルを半分にしてつなぎ合わせ「友情のメダル」としたという逸話が残っています。
友情のメダル
大江季雄君(左)と西田修平選手(右)(棒高跳び)
西田選手ご息女・天野喜代子氏提供(慶應義塾体育会競走部OG)
1956年の第16回メルボルン大会の体操では、4大会連続出場の小野喬君が大活躍し、鉄棒の金メダルを含む5つのメダルを獲得しました。
小野君は、続く1960年の第17回ローマ大会でも団体総合・鉄棒・跳馬で金メダル、個人総合で銀メダル、平行棒・つり輪で銅メダルと大活躍。体操ニッポンの名を世界に轟かせました。
塾員の松平康隆君は、1964年の第18回東京大会でバレーボールチームのコーチとして参加。その後監督に就任し、続くメキシコ大会で銀、ミュンヘンでは金メダルにチームを導きました。また、塾員で現・日本オリンピック委員会(JOC)会長の竹田恆和君も1972年の第20回ミュンヘン大会、続く1976年の第21回モントリオール大会で馬術選手として活躍しました。
近年でも、2004年の第28回アテネ大会では、野球チームで現・読売巨人軍監督の高橋由伸君が銅メダル、2012年の第30回ロンドン大会では、当時塾生の三宅諒君がフェンシングの男子フルーレ団体で銀メダル、立石諒君が水泳200m平泳ぎで銅メダルを獲得しました。
ロンドンオリンピック・パラリンピック出場選手塾長招待会にて(選手左から 土居愛実君、山縣亮太君、高桑早生君、立石諒君、三宅諒君、横田真人君)
今年の第31回リオデジャネイロ大会には、環境情報学部4年の土居愛実君(セーリング・女子レーザーラジアル級)、環境情報学部3年の棟朝銀河君(体操(トランポリン)・男子個人)、塾員では総合政策学部卒業の山縣亮太君(陸上競技・男子100m,男子4×100m)、パラリンピックでは高桑早生君(陸上競技・女子走幅跳・T44)の出場が決定し、期待が高まっています。
今夏、1952年の第15回ヘルシンキ大会に当時塾生として出場しレスリングで銀メダルに輝いた北野祐秀君より、そのメダルと賞状が慶應義塾に寄贈された。
さらに2020年の東京大会に向けて
2020年の第32回東京大会では、慶應義塾大学日吉キャンパスが英国オリンピック代表チームのキャンプ地に決定しました。競技会期間中のトレーニングや事前キャンプ地として活用されます。
また、東京大会の成功に向け、オリンピック教育の推進や大会機運の醸成等の取り組みを進めるため、一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会との協定を締結し、さまざまな連携協力を進めます。さらに、主会場となる国立競技場に隣接する信濃町の慶應義塾大学病院は、オリンピック・パラリンピックのいわば後方支援的病院として、特に積極的な連携協力を検討しています。
慶應義塾とオリンピックの関わりは、年月とともにかたちを変え、これからも続いていきます。